創業者・古澤静、眼鏡レンズとの出会い
近代的国家に移行し、世論が政治を動かしはじめた大正元年。その前年の明治44年に創業者・古澤静は誕生した。幼いころ肺炎により母親を亡くし、さらに自身も肺炎で闘病生活を強いられながらの幼少期を過ごした。世間は大正デモクラシーで大衆文化が華やぎ、同世代の同級生は進学・就職して社会で活躍する。そんな中、闘病で遅れをとった静は、その辛苦の時期をバネにするように独立の野心を燃やし、情熱を眼鏡レンズへ注いだ。
静が眼鏡レンズと出会ったのは昭和2年、18歳の頃に父の紹介で入社した「下村レンズ研究所」であった。それが「東海光学株式会社」発足に至る初芽となる。当時は眼鏡をかけられるのは富裕層の贅沢品であった。東京と大阪にはレンズメーカーがあったが、名古屋にあった眼鏡レンズ工場はこの「下村レンズ研究所」1社。社長は熟練技術の持ち主であったため、下村レンズの製品は品質の高さで定評を受けていた。工作好きで理数に明るい静は、もともとの職人気質の性格も相まって下村レンズで職長を任され、眼鏡レンズの製造工程全体を取り仕切る係に就く。
日本初、乱視用研磨機(TC機械)の開発
昭和初期のレンズ製造工程といえば、プレス、荒削り、貼り付け、砂かけ、研磨、剥離、検査。この一連の流れのほとんどを一人の職人が請負い、検査の手前までは職人が仕上げるという工程をとっていた。レンズの仕上がりはその人の能力に関わり、腕の良い職人でも1日9枚の乱視レンズをつくるのが精一杯。効率かつ大量生産とは程遠い生産体制であった。「なんとか効率の良い作り方ができないものか」と考えた静は、すぐに乱視レンズの製造機械について研究にとりかかった。その日の仕事を終えると「眼鏡」「レンズ」の項目のある書物を読み漁った。そしてある時レンズ研磨機の模型を発見した。それを見た静は、あくる日から機械開発に明け暮れることになる。下村社長夫人もその開発を快諾し、後押ししてくれたのだった。
開発は困難を極めた。乱視レンズの研磨機は球面レンズとは違うカーブの研磨が要で、高い精度の加工技術が必要とされた。1年経ち、2年経ち、3年目にようやく納得のいく品質のものが出来上がった。ついに、一台の乱視研磨機(TC機械)の完成によって、4時間の研磨で110枚、2回転させて1日に220枚という数のレンズが大量生産できるようになったのである。当時、静は23歳。その日の出来事が、静にとって生涯最大の快挙として深く私史に刻まれた。
「古澤レンズ工場」の創業
静の開発した乱視研磨機は業界内で知れ渡り、すぐに同業メーカーが同じように機械を製造した。大量生産体制は国内需要の増加を後押しし、さらに輸出も盛んとなっていく。静のレンズへの情熱は、まさに国内外の市場を動かしていた。
下村レンズ研究所へ入社して11年、古澤静は満を持して独立をする。下村レンズ研究所にあとから入社した弟の正男も、時を同じくして退社した。昭和14年、静は正男とともに名古屋市中区向田町に「古澤レンズ工場」を創業。下村レンズ研究所との共存に配慮するため、あえて乱視レンズは作らず、球面レンズの製造に絞った。さらに静は当時のレンズメーカーでは珍しく、製造工程を分業する流れ作業を採用した。日中戦争の戦況を鑑み、将来の優秀な職人不足に先手を打つ体制であった。下村レンズ研究所時代に鍛えた品質への確かな目と、「静の仕事は納期が固い」との定評で、古澤レンズは名古屋市内外の小売店へ製品を納めることになった。
さて、昭和16年に勃発した太平洋戦争で、軍需産業のあった名古屋はいつ爆撃にあうか分からないような状況にあった。そんな中、静は名古屋から岡崎へ疎開することになる。古澤レンズ工場は一時閉鎖状態となり、昭和19年に岡崎市で合同企業「日東光学工業有限会社」に帯同。機械の部材も製品の材料も手に入りにくい時代とあって、静と正男は力を合わせて工場建設に大変苦心した。しかし昭和20年、岡崎市街地にB29の焼夷弾が落ちて日東光学工業は全焼する。同年8月15日、終戦。静と正男は戦火を免れたが、再びゼロからの出発となった。終戦の悲嘆に暮れる間も無く、二人は新たな闘志を燃やしたのだった。「再び自分たちの会社を興してレンズを作ろう」と。かくして、古澤レンズ工場は新しい時代へと船出した。
法人化とAJOCの指定工場への道
昭和22年には正男も「古澤正男レンズ工場」として独立。その折に、静は乱視用レンズ、正男は球面レンズの製造に特化し、兄弟は二人三脚でレンズメーカーの新たな土台を築くべく奔走した。戦後の物不足の時代で、眼鏡レンズを待つ人々の声はとどまることはなかった。
昭和32年10月、静は「光陽光学株式会社」を、同年12月に正男は「松竹光学株式会社」を設立。法人として会社形態を整え、在庫を持つ生産体制を作る。これにより、小売店が在庫をもつ必要がなく、メーカーが卸し機能をもつため小売店の資金効率に大変役立った。その在庫政策がまた、静と正男に新たなチャンスをもたらすことになる。昭和33年、業界初のボランタリーチェーンで眼鏡店7社からなる「ALL JAPAN OPTICAL CHAIN(通称:AJOC)」の共同仕入れのための指定工場に選ばれたのだった。彼らの在庫政策はもちろん、古澤兄弟の作るレンズの品質への圧倒的な信頼があってこそだった。「ルミーレンズ」と「コレクタールレンズ」という2種類のレンズを発売し、急速に受注量を増やしていった。昭和39年には、クイックデリバリーのために東京出張所を開設。同年には九州出張所も開設し、全国への流通拠点を確保した。
静と正男の兄弟は、製造するレンズは違えども、顧客も仕入れ先も全て同じ、重要な商談など情報交換は常に二人揃って行動をしてきた。まさに両輪となり眼鏡レンズの市場を動かしてきたといっても過言ではない。そして昭和40年、二者は名実ともに会社の両輪となることを決意。力を合わせてもっと会社を発展させよう、と「東海光学株式会社」を創設した。代表取締役社長・古澤静、代表取締役専務・古澤正男。二人の兄弟と約100名の社員は、心をひとつに新たな眼鏡レンズ市場への挑戦の舵を切った。その後、東海光学株式会社は飛躍的な発展を遂げていくことになる。