HISTORY
東海光学の歴史

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おかげさまで2019年3月で創業80周年を迎えました。
創業以来、お客様のご要望に応え、新たな感動を提供し続けて参りました。
これからも真摯な企業姿勢を貫き、
皆様により多くの感動をお届けできるよう全力で努力して参ります。

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80周年社史『東海光学誕生』

創業者・古澤静、眼鏡レンズとの出会い

近代的国家に移行し、世論が政治を動かしはじめた大正元年。その前年の明治44年に創業者・古澤静は誕生した。幼いころ肺炎により母親を亡くし、さらに自身も肺炎で闘病生活を強いられながらの幼少期を過ごした。世間は大正デモクラシーで大衆文化が華やぎ、同世代の同級生は進学・就職して社会で活躍する。そんな中、闘病で遅れをとった静は、その辛苦の時期をバネにするように独立の野心を燃やし、情熱を眼鏡レンズへ注いだ。

静が眼鏡レンズと出会ったのは昭和2年、18歳の頃に父の紹介で入社した「下村レンズ研究所」であった。それが「東海光学株式会社」発足に至る初芽となる。当時は眼鏡をかけられるのは富裕層の贅沢品であった。東京と大阪にはレンズメーカーがあったが、名古屋にあった眼鏡レンズ工場はこの「下村レンズ研究所」1社。社長は熟練技術の持ち主であったため、下村レンズの製品は品質の高さで定評を受けていた。工作好きで理数に明るい静は、もともとの職人気質の性格も相まって下村レンズで職長を任され、眼鏡レンズの製造工程全体を取り仕切る係に就く。

日本初、乱視用研磨機(TC機械)の開発

昭和初期のレンズ製造工程といえば、プレス、荒削り、貼り付け、砂かけ、研磨、剥離、検査。この一連の流れのほとんどを一人の職人が請負い、検査の手前までは職人が仕上げるという工程をとっていた。レンズの仕上がりはその人の能力に関わり、腕の良い職人でも1日9枚の乱視レンズをつくるのが精一杯。効率かつ大量生産とは程遠い生産体制であった。「なんとか効率の良い作り方ができないものか」と考えた静は、すぐに乱視レンズの製造機械について研究にとりかかった。その日の仕事を終えると「眼鏡」「レンズ」の項目のある書物を読み漁った。そしてある時レンズ研磨機の模型を発見した。それを見た静は、あくる日から機械開発に明け暮れることになる。下村社長夫人もその開発を快諾し、後押ししてくれたのだった。

開発は困難を極めた。乱視レンズの研磨機は球面レンズとは違うカーブの研磨が要で、高い精度の加工技術が必要とされた。1年経ち、2年経ち、3年目にようやく納得のいく品質のものが出来上がった。ついに、一台の乱視研磨機(TC機械)の完成によって、4時間の研磨で110枚、2回転させて1日に220枚という数のレンズが大量生産できるようになったのである。当時、静は23歳。その日の出来事が、静にとって生涯最大の快挙として深く私史に刻まれた。

「古澤レンズ工場」の創業

静の開発した乱視研磨機は業界内で知れ渡り、すぐに同業メーカーが同じように機械を製造した。大量生産体制は国内需要の増加を後押しし、さらに輸出も盛んとなっていく。静のレンズへの情熱は、まさに国内外の市場を動かしていた。

下村レンズ研究所へ入社して11年、古澤静は満を持して独立をする。下村レンズ研究所にあとから入社した弟の正男も、時を同じくして退社した。昭和14年、静は正男とともに名古屋市中区向田町に「古澤レンズ工場」を創業。下村レンズ研究所との共存に配慮するため、あえて乱視レンズは作らず、球面レンズの製造に絞った。さらに静は当時のレンズメーカーでは珍しく、製造工程を分業する流れ作業を採用した。日中戦争の戦況を鑑み、将来の優秀な職人不足に先手を打つ体制であった。下村レンズ研究所時代に鍛えた品質への確かな目と、「静の仕事は納期が固い」との定評で、古澤レンズは名古屋市内外の小売店へ製品を納めることになった。

さて、昭和16年に勃発した太平洋戦争で、軍需産業のあった名古屋はいつ爆撃にあうか分からないような状況にあった。そんな中、静は名古屋から岡崎へ疎開することになる。古澤レンズ工場は一時閉鎖状態となり、昭和19年に岡崎市で合同企業「日東光学工業有限会社」に帯同。機械の部材も製品の材料も手に入りにくい時代とあって、静と正男は力を合わせて工場建設に大変苦心した。しかし昭和20年、岡崎市街地にB29の焼夷弾が落ちて日東光学工業は全焼する。同年8月15日、終戦。静と正男は戦火を免れたが、再びゼロからの出発となった。終戦の悲嘆に暮れる間も無く、二人は新たな闘志を燃やしたのだった。「再び自分たちの会社を興してレンズを作ろう」と。かくして、古澤レンズ工場は新しい時代へと船出した。

法人化とAJOCの指定工場への道

昭和22年には正男も「古澤正男レンズ工場」として独立。その折に、静は乱視用レンズ、正男は球面レンズの製造に特化し、兄弟は二人三脚でレンズメーカーの新たな土台を築くべく奔走した。戦後の物不足の時代で、眼鏡レンズを待つ人々の声はとどまることはなかった。

昭和32年10月、静は「光陽光学株式会社」を、同年12月に正男は「松竹光学株式会社」を設立。法人として会社形態を整え、在庫を持つ生産体制を作る。これにより、小売店が在庫をもつ必要がなく、メーカーが卸し機能をもつため小売店の資金効率に大変役立った。その在庫政策がまた、静と正男に新たなチャンスをもたらすことになる。昭和33年、業界初のボランタリーチェーンで眼鏡店7社からなる「ALL JAPAN OPTICAL CHAIN(通称:AJOC)」の共同仕入れのための指定工場に選ばれたのだった。彼らの在庫政策はもちろん、古澤兄弟の作るレンズの品質への圧倒的な信頼があってこそだった。「ルミーレンズ」と「コレクタールレンズ」という2種類のレンズを発売し、急速に受注量を増やしていった。昭和39年には、クイックデリバリーのために東京出張所を開設。同年には九州出張所も開設し、全国への流通拠点を確保した。

静と正男の兄弟は、製造するレンズは違えども、顧客も仕入れ先も全て同じ、重要な商談など情報交換は常に二人揃って行動をしてきた。まさに両輪となり眼鏡レンズの市場を動かしてきたといっても過言ではない。そして昭和40年、二者は名実ともに会社の両輪となることを決意。力を合わせてもっと会社を発展させよう、と「東海光学株式会社」を創設した。代表取締役社長・古澤静、代表取締役専務・古澤正男。二人の兄弟と約100名の社員は、心をひとつに新たな眼鏡レンズ市場への挑戦の舵を切った。その後、東海光学株式会社は飛躍的な発展を遂げていくことになる。

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80周年社史『時代はプラスチックへ』

第一号ラボの誕生と武雄の入社

昭和40年、東京営業所の移転、九州出張所の開設に続いて名古屋市白壁町に名古屋営業所を開設。東海光学株式会社として合併後、はじめての拠点となった。木造二階建ての建物1階に東海光学のラボラトリーの第1号「名古屋ラボ」である。ここで、量産がしにくいバイフォーカル(二重焦点)レンズや特注レンズなど特注品製造の体制を固めた。

当時、処方箋からつくる特注レンズは、ひとつひとつ測りながら手で切削して仕上げていくため、大変難しく費用もかかる製品だった。とくに内面乱視レンズは1日2〜3枚の生産が限度で、ラボ開設の1年あまりは特定の注文を捌くだけで精一杯だった。ラボには、シューロンというアメリカ製の研磨機が導入されており、日本国内初導入ということで見学者も多かった。開設2年目からは体制も整い、月に3000枚ほどの生産量で徐々に他の小売店へも販売を広げることができた。

さて、名古屋ラボ開設から2年後の昭和42年には東海光学の歴史上、語らずにはいられない出来事がある。現会長の武雄の入社である。鴨田工場に1週間いたあと名古屋ラボへ配属された武雄は、まずは眼鏡の勉強をはじめた。B5の誌面にみっちりと記されたこの学習ノートは、通称「武雄の本」として以降10年あまり新入社員の教科書となった。

コーティングレンズの技術構築

東海光学の成長の鍵をにぎるひとつが、絶え間ない技術革新と設備投資である。そして、どの時代も東海光学とAJOCは手を取り合ってレンズの品質を重視する政策をとり続け、それが他社との圧倒的な差別化ともなった。

さて、武雄が入社して最初に取り組んだ仕事が、コーティングレンズの開発と販売である。コーティングレンズとは、レンズの表面に特殊な物質を付加し、通常のレンズよりも光線反射を少なくして透過率を高めたレンズである。昭和42年に東海光学はコーティングレンズの製造開始を決定。日本ではじめてイタリアから本格的なコーティングマシン(真空蒸着装置)2台を鴨田工場に導入した。さらに武雄が目をつけたのがGLAR真空蒸着装置である。これを4台も購入した。武雄は当時、入社2年目。チャレンジにはお金を惜しまない。革新に向かって恐れず進む。静と武雄に共通したのは、こうした「夢」への飽くなき挑戦心だった。

その後、コーティングレンズの需要は増加の一途を辿る。一方で、設備導入と同時に問われるのはその生産体制であった。新技術には未知の部分が付きまとう。機械のメンテナンスや前処理技術、室内の環境技術など、どれが狂っても効率に関わる。さらに二交代制勤務を導入するなどで労務管理もひと筋縄ではいかない。失敗を何度も繰り返しながらも、東海光学は生産力と国際競争力をつけていったのである。

累進レンズ「ZOOM」販売開始

「お客様のご要望にあった新しい商品を開発する」。そんな信念のもと、営業課長であった武雄は新たな挑戦を開始する。昭和44年、東海光学は累進レンズ(遠近両用レンズ)「ZOOM」の販売を決定した。当時、累進レンズは東海光学の「ZOOM」ともう1社しか国内市場にはなかった。

昭和45年には、武雄は初めて海外視察へいき、新しい機械を購入することになる。フランスの本格的高速一枚研磨方式の機械である。研磨の短縮はコストを引き下げるだけでなく、在庫や仕掛品を少なくできる利点もある。しかし、問題点もあった。この機械は研磨皿全体にダイヤモンドが貼られている方式で切削能力は高いが傷がつきやすく、国内の規格に合うレンズはできなかった。そこで自社技術で開発したダイヤモンドペレットで解決した。こうした技術調整の積み重ねが、東海光学の技術力を底上げした。そしてこの研磨の高速化によって、東海光学はまた世の中の一歩先をいくことができたのである。

この時の海外視察で、武雄はフランスのプラスチックメーカー「オルマ社」に立ち寄っている。当時、プラスチックレンズのシェアはフランスで20%、日本では限りなく0に近い数字。しかし、野生の勘とも言える“兆し”を武雄は感じていた。「ここに大きなチャンスがある」。この時から、武雄はプラスチックレンズの研究に傾倒していくことになる。

プラスチック元年と経営の近代化

「プラスチックをガラスのように硬く強くするにはどうしたらいいか」。プラスチックレンズの開発は失敗の連続だった。プラスチック用の真空蒸着装置はどこにもない。アメリカから最新鋭のエレクトロガンを購入し、蒸着装置に取り付けて真空状態の中で低融点のガラスを飛ばしてプラスチックの表面に蒸着する方法をとったこともある。しかし、一度も成功しなかった。この挑戦から10年後の昭和56年、アメリカで開発されたクライオポンプという真空蒸着装置が完成して、プラスチックコートの道は一気に開けることになる。

昭和47年には名古屋ラボを岡崎に引き上げ、さらにAJOCからプラスチックレンズの技術研究について正式な相談があり、鴨田工場にプラスチックレンズの専用ラボを開設。その年、東海光学は半製品を研磨して最初のプラスチックレンズ商品「メジャー」、「スーパーメジャー」を発売する。プラスチックレンズはその後14年間で約10倍の生産量に伸びている。

翌年の昭和48年には累進レンズ「ZOOM」の新製品となる国内初のプラスチック累進レンズ「ZOOM HIFI」を発売。また、昭和51年には高屈折ガラスレンズ1.7「ハイライト」を発売する。東海光学がもつコーティング技術を結集させて開発したこのレンズは、他社を引き付けないヒット商品となった。

昭和47年は、東海光学の組織力が強化された年でもあり、経営理念と方針を打ち出した。「お客様を第一に考え行動し、お客様とともに成長する」という営業部長・武雄の信念が色濃く映し出された組織体制で、新たなスタートを切ったのである。近代的経営を進めるなかで、昭和51年にはファクシミリを導入、さらに翌年コンピュータの導入も行い、業界初の受発注ネットワークを構築。「24時間デリバリーシステム 1DAYサービス」の体制が作られる。「心を込めたサービスをいかに提供し続けるか」。こうした想いが、業界に先駆けた独自のサービスを作り出したのである。

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80周年社史『夢の新工場』

サンルックスとプラスチックレンズ専用工場

昭和54年、古澤正男が社長に就任し、静は会長へ、そして専務取締役として武雄が就任した。業界内でプラスチックレンズの需要が高まる中、東海光学としても加工だけでなくプラスチックレンズ製造を開始する準備をすすめていた。そんな折、昭和56年には国内で数少ないプラスチックレンズ製造のできる企業、株式会社サンルックスと正式な業務提携を結ぶこととなる。ここが東海光学のターニングポイントともなった。福井県鯖江市にある従業員20人余りの町工場で、設備機器一切は揃っているものの、経営状態やレンズの品質としてはまだテコ入れする必要がある。なにより、まずは経営と従業員の人間関係を作る必要があった。良い信頼関係なくして良い製品を生み出すことはできない。国内向けプラスチックレンズの製造が軌道に乗るまでに約9ヶ月。ようやく東海光学のレンズとして恥ずかしくない品質を保てるようになったのである。

時を同じくして、昭和56年、鴨田工場の一角に新しいマシンが設置された。プラスチックレンズ専用マルチコーティングマシン1号機である。このマシンも例によって、すぐに使い物になるわけではない。技術者たちは何度もテストを繰り返し、独自のノウハウを蓄積することで東海光学におけるプラスチックレンズのマルチコートが発売できる体制を築いていった。そうした経験のひとつひとつが、東海光学に息づく研究開発への精神と技術力になっていったのである。当時、プラスチックレンズの売上は社内シェア20%にまで高まっていた。将来にわたる需要を鑑み、昭和57年には岡崎市日名町の土地に新たなプラスチック専用工場を建設。こうして、東海光学オリジナルレンズの生産体制が整ったのである。

TOSS&1DAYサービス

昭和58年、東海光学は企業合理化で中小企業庁長官賞を受賞。武雄はその牽引力を発揮し、販売力、生産力、そして組織力を一層高めていく。その取り組みのひとつが、TOSS&1DAYサービスである。「注文を受けたレンズを間違いなく、一刻も早く、約束通りの納期に納める」ことがレンズメーカーの信用である、という顧客第一主義の鉄則を強化。24時間デリバリーに加え、「TOSS(トーカイオーダーサービスシステム)」としてお客様ひとりひとりに合った超特注商品を、より迅速に提供するためのシステムを築いたのだ。同年、武雄は社長に就任し、正男社長は会長に、静会長は名誉会長に就任。「活力ある経営」を指針とし、若い思考力をもつリーダーによって東海光学は一層躍動することとなる。

昭和59年には、日名工場に連続コーティングマシンを導入。これまで1回ごとにレンズを入れ替えるバッチ式であったのが、加熱から真空、蒸着、除冷と一連処理する全自動真空多層蒸着装置によって大幅な高速化が図られた。さらにプラスチックレンズのハードコーティング設備も導入し、生産性が一気に高まった。

オリジナルブランド「ベルーナ」誕生

プラスチックレンズの開発が進むにあたり、東海光学は無機ガラスレンズの光学メーカーから、有機の化学メーカーへの転換に迫られていた。そんな中でタッグを組んだのが総合化学メーカー昭和電工との共同である。光で固まる光硬化性樹脂「スラピン樹脂」を眼鏡レンズに使えないだろうか、という発想のもと、東海光学と昭和電工は共同開発を進めることとなる。昭和59年、「サンルックス生産技術開発プロジェクト」を発足させるなかで研究開発を進め、合成樹脂レンズを製造する際に発生するモールドからの剥がれ対策を中心とした「ガスケット・オフ法」という合成樹脂レンズの製造方法で特許を出願。その後も開発を進め、昭和62年には「ベルーナ」を発売した。スラピン樹脂の開発は世界初。そのメリットは傷がつきにくく薄いことで、屈折率がCR-39の1.50に対して、1.53と高い。そして透明度はガラスに匹敵するほど高かった。光学特性も色収差が小さく内部歪が少ないなど、ガラスレンズの長所ももっており、プラスチックレンズとガラスレンズの良さを兼ね揃えたバランスのよい眼鏡レンズ製品となった。この共同開発は技術力の一層の強化となり東海光学にとって大きなメリットとなった。

新工場完成

昭和59年、東海光学はフレーム事業部をスタートさせる。新たな事業の軸を作るというのが、武雄の宣言のひとつでもあった。さらに、昭和61年には眼鏡店とメーカーを結ぶオンラインシステム「メガネット」がスタート。東海光学を含めて服部セイコー、ペンタックス/カールツァイス、トプコン、東レ、帝人レンズのメーカー6社による共同受発注システムである。新たなことに挑戦し続ける姿勢は、東海光学を飛躍させる原動力である。昭和62年に、東海光学では岡崎市花園町のメカトロ団地に新工場用地一万坪の取得を申請。平成2年5月17日に本社工場は竣工した。「単に工場拡大を目的とした移転ではなく、眼鏡関連総合メーカーとして21世紀の眼鏡づくりを基本に、お客様に対するサービス体制の充実と地域社会における環境保全、社員の福利厚生を含めて労働環境整備など、本社機能を充実し東海光学のイメージを一新させる」。この東海光学の夢がまたひとつ、新たな音を鳴らし動きだしたのである。

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80周年社史『新たなる挑戦』

コーポレートシンボルの策定

平成2年の「1万坪の夢の新工場」の完成と同時に、新たな飛躍を示す指針としてコーポレートシンボルを一新。青い円の右上に、丸い縁に沿って「i」の文字を描いたデザインである。「i」は眼と愛を意味し、顧客第一主義を実現するためのお客様への「愛」であり、愛社精神の「愛」である。青い円は「レンズ」であり、輝いている。また地球も意味しており、「i」は日本列島も表している。そしてグローバルに躍進していくことをグラデーションで描いているのである。同時に、長期ビジョンとして3本の柱「長年培ってきた独自のオプティカル技術を駆使し、さらに高品位の商品を開発すること」「眼鏡事業という柱に加え、独自の技術を生かし、新しい柱を構築すること」「マーケットを日本だけでなく世界へと広げ、グローバルな販売展開を実施すること」という意思を打ち出した。

i事業部

会社のパワーになるような新しいものを思い切ってやってみよう。そんな意思が脈々と流れる東海光学において、第二次中期計画の時に発足したのが「i事業部」である。取り組んだのは、ダイビング用度付きレンズなどスポーツレンズで「アイコット」というブランドを取り扱う「アイコット部」。そして、次に事業化したのがマルチコーティングを受託する「iCS部」である。東海光学の真空蒸着技術を生かした新しい製品を、ということで日名工場にマルチコーティングの機械を2台導入。このレンズは商社などを通じて国内外の販売網へ広がった。さらに医療の視点から新たな分野を確立できないかと「医療眼鏡部」も立ち上げた。

新事業という意味では以前から始めていた「フレーム事業」がある。昭和63年には東海光学オリジナルブランドフレームとして「シャロル・レゾン」が発売。アジア最大級の眼鏡総合展である「国際眼鏡展IOFT展’88」に初出展し、「ベルーナ」と「シャロル・レゾン」を大々的に発表した。

開発力と技術の逸材

新社屋設立にあたり、新たな挑戦のひとつとなったのが本社での「重合(キャスティング)」である。これまではサンルックスで行っていたが、屈折率の高い素材の独自開発を目的に、新社屋での開発に移行することとなった。当時最高の屈折率が競合他社の「1.6」。それを超える製品を作るために研究開発チームは1年がかりで開発を行った末、平成3年に東海光学オリジナル高屈折プラスチックレンズ第1号「SP(スーパー)1.6」が誕生した。これによって「素材開発から生産、販売まで全てを自社で行う、国内唯一のレンズ専業メーカー」として真の一貫生産体制が完成したのである。

研究開発部には優秀な人材が所属し、研究開発こそがお客様との接点を維持する生命線である。開発の3本柱は、素材の開発(屈折率の高いレンズの開発)、表面処理技術の開発(マルチコーティング、ハードコーティング、染色などの二次加工の開発)、設計の開発(非球面設計・累進設計の開発)。特に、スペシャリストの育成には惜しまず投資した。特筆すべきは、オリジナル累進レンズの開発と光学薄膜の道を開いた技術者の存在である。彼らの研究に向かう姿勢が、東海光学の技術力を飛躍的に革新させたのである。

非球面レンズと累進レンズ

難しいことへの挑戦を厭わない。それが東海光学が誇る累進レンズ開発者の底力である。非球面レンズの勉強を始めたのが平成2年、鴨田工場の加工部門と共に開発に挑み続け、非球面加工機械導入4ヶ月後の平成4年4月には、ついに東海光学初のSP1.6非球面レンズ(ベルーナHI-AS MC<マルチ>99)が完成した。その非球面レンズの開発が糧となり、さらに難易度の高い累進レンズの設計を開始。累進レンズの設計者は世界をみても指折り数えるほどしか居らず、その開発の道程は果てしないもののように思えた。苦節3年、平成7年に「近用ワイドビジョン コスモライフ(ベルーナUNOは翌年)」を発売した。近々用累進レンズで日本での特許を出願後、アメリカとヨーロッパにも出願し承認された。平成10年には、累進帯15ミリ、屈折率1.6の新型累進レンズ「ベルーナクレス」を発売。こうして東海光学の技術者が世界屈指の累進レンズ設計者のひとりとなったのである。

光学薄膜の幕開け

東海光学の新たな道の礎を築いたのが光学薄膜の技術者である。平成5年頃、非球面レンズの「マルチ99」は歩留まりが悪く、生産技術の見直しを迫られていた。そんななか薄膜技術を基礎から勉強し直し、眼鏡レンズ以外にも応用的な研究をしていくことを技術的課題として、託された若い技術者がいた。彼を薄膜研究の権威である大学教授のもとへ研究生として派遣したところ、研修先で光学薄膜と出会うのである。

薄膜技術の研究に集中できるように拠点を日名工場へ移し、暫くしてはじめて光学薄膜の受注が入る。光通信に使用する光ファイバーで、先端にレーザー光線がうまく飛ぶように反射膜を蒸着するという依頼であった。そして平成8年、「薄膜部」を設立。部員3名、初年度の売上はわずかだった。

東海光学の蒸着技術はガラスレンズのコーティングからの長い実績がある。これに対して光学薄膜は、ガラスや樹脂部分など、物体の表面に薄い膜を真空蒸着することで光の透過率をあげたり、反射率を高めたりする技術である。光の反射防止、赤外線の除去、光波長などをコントロールする機能をもち、応用範囲は眼鏡以外にカメラ、テレビ、パソコン、携帯電話、カーナビなど実に広い。ただし、技術的には非常に難易度が高い。眼鏡レンズの場合は、蒸着する層が3〜5層に比べ、光学フィルターの場合は40層ほどと多く、ナノオーダーの薄膜技術が求められるのである。その技術に定評を得て、薄膜部設立2年後には「薄膜事業部」に昇格した。

「よし、薄膜工場をつくろう」。21世紀、東海光学の第二の事業に成長の思いを込めて。平成13年、薄膜工場が竣工した。

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80周年社史『日本から世界へ』

宏和の入社 次世代への継承

平成6年4月に、現社長の宏和は入社した。海外の視察研修や工場研修を終えた後営業部に配属、平成11年には取締役社長室室長に就任した。翌年、社長の武雄が60歳を目前に控えた段階で、次世代リーダー育成として、DNAの継承の場となる「古澤塾」を開始。さらに宏和を中心としたプロジェクトメンバーによる第5次中期経営計画をスタートさせた。「徹底した顧客思考のもと、新たな企業価値を創出し、世界企業となる」という指針を掲げ、「マーケットインの発想」「付加価値の向上」「スピード経営の実施」「迅速そしてより的確な対応力」といった新たな企業価値を生み出す決意を新たにした。こうして、東海光学を継承する準備は着々と進められたのである。長期ビジョンの3本の柱のひとつ「マーケットを日本だけでなく世界へと広げ、グローバルな販売展開を実施すること」。これを実践するため、海外展開にも力を入れた。薄膜事業の強化とともに、平成12年に「海外事業部」を設立した。

海外事業の門出

さて、少し歴史を遡ると、海外事業の最初の足がかりとなったのが世界初の光硬化樹脂レンズをもってして台湾マーケットへ挑んだ平成2年。台湾国内の商社や販売店との取引により、東海光学のシェアが大幅に伸びたのだ。その後もインドネシア、シンガポールといった東南アジアへ足を伸ばし、アメリカ、カナダ、西ヨーロッパへと展開することになる。

平成3年にはドイツ・ケルンで開催された「オプティカ展」、イタリア・ミラノで行われた「ミド展(MIDO)」などで欧州販路への情報収集のほか、欧州では「屈折率1.60」も好評を博す。確実に、東海光学の品質は海外市場に評価されていた。その後も商社を通じて世界的に有名な大手眼鏡店やラボとつながり、平成7年にベルギーを世界ネットワークの基点とする共同出資会社「TOKAI OPTECS N.V.」を設立する。

世界を牽引する開発力

「世界企業となる」。そのスタンスは年々研ぎ澄まされ、TOKAIブランドとして日本、ひいては世界へとその地位を築いていくことになる。海外事業部を設立した平成12年、品質管理・保証に関する国際標準規格「ISO9001」の認証を取得、さらに環境管理に関する国際標準規格「ISO14001」の認証も取得。平成16年、愛知県内のすぐれたものづくり企業が選定される「愛知ブランド企業」に認定される。組織としても一層強固な基盤が作り上げられた。

平成18年4月には、世界初・世界最高屈折率1.76を誇る単焦点プラスチックレンズ「ベルーナ ZX-AS」を発売。同年6月には世界一の薄型レンズ「ベルーナZX-MU」を発売し、国内外で注目を集める。どちらも開発は困難を極めたが、その品質の高さは東海光学の技術力の高さを知らしめるのに十分だった。また、同年9月には特注品の「S-280D」という強度数レンズを開発。「匠」レンズとしてその技術力をさらにアピールする商品となった。そして平成21年、古澤武雄は代表取締役会長、古澤宏和は代表取締役社長に就任。新たな時代へと走り始めた。

TOKAIブランドを世界へ

海外事業の拡大はスピードをもって展開した。平成14年、アメリカに商品紹介のプレゼンテーションを実施し、高品質なレンズが好評を得た。翌年、念願のアメリカ市場進出を果たす。それを契機に、世界60カ国以上での販売実績を誇ることになる。

平成22年にはTOKAI上海を設立。現地法人を設立し、ついに中国への進出を果たす。平成24年にはSIOF(上海国際眼鏡展示会)に初出展。その後も出展を続け、平成31年2月に開催されたSIOFでは「1.76商品」「ルティーナ」「肌美人」など、東海光学の独自性ある商品を展示し、大きな反響を得た。

アジア市場では特に、メイドインジャパンの高品質なレンズは信頼度が大変高い。欧州では平成26年にTOKAI ITALIAを設立。平成28年にはTOKAI UKを設立し、EU圏での販売実績を拡大している。東海光学の独自性ある技術が、確実に未来を切り拓く原動力となり、時代を動かしている。

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80周年社史『独自性の発揮』

脳科学メガネレンズの誕生

日本酒の利き酒を行う際に脳科学を採用しているという情報に、武雄社長(現会長)がピンときたのが脳科学との出会いであった。人間の主観と脳が感じていることは同じであるとは限らない。それをヒントに、脳科学の研究を担当しているNTTデータ経営研究所とコンタクトをとり、脳科学による累進レンズの評価が可能かどうかを研究し始めた。さまざまなテストを行った結果、脳波の計測結果をレンズ設計に反映することができることがわかり、極秘プロジェクトがスタートしたのだ。

特に、遠近両用(累進レンズ)は“これが最適”というものがなく、見え心地の差が大きい商品。そこで、人が感じる心地よさを脳波によって測り、感情の動きを分析することで装着時の“見え心地”を分析し、設計に反映するレンズを考案。掛けることで脳が喜ぶ、業界初の「脳科学メガネレンズ」を生み出した。

平成20年に東京ビックサイトで開催されたiOFT2008で脳科学メガネレンズ「ベルーナレゾナス」を発表した。

10年を迎えた脳科学メガネレンズ

脳科学メガネレンズは、“東海光学といえば脳科学”という代名詞ともなる業界内外での地位を確立した。ベルーナレゾナス発表後、平成21年にレゾナスR、22年にレゾナスフィット、23年にレゾナスMT、レゾナスフィットRと「脳科学メガネレンズシリーズ」を続々と発表。さらに、世界最先端の脳科学研究が行われている自然科学研究機構 生理学研究所(柿木隆介教授、乾幸二准教授)と共同で、近中累進レンズ「ベルーナレゾナスプレッソ」を発表し、学術的にも価値がある最新の脳科学として評価を得た。平成25年にはレンズを脳磁図(MEG)で評価することで両眼で見たときに最適に見える累進レンズ「ベルーナグラナス」を開発。翌年には、一人ひとりの目の個性に合わせた独自の最適補正システムを導入した「ベルーナニューログラン」を発売した。こうして、誕生から10年を経て脳科学メガネレンズシリーズは17商品にまで拡大。平成30年には、集大成となる「レゾナスX(テン)」を発表し、これまでの技術全て注ぎ込んだ“脳まで心地よい装用感”のあるレンズを実現させた。

アイケアデザイン

平成26年のiOFT2014を機に、東海光学は眼の健康を守るためのものづくりの考え方“ずっと健康であるために、光からもっと眼を守る。未来のスタンダードをつくるアイケアデザイン”というコンセプトを打ち出した。それを体現した第一弾のレンズが新商品「ルティーナ」である。ものを見るのに重要な「黄斑部」に存在する「ルテイン」に着目し、光をカットすることでルテインの消耗を抑えるレンズを開発。眼の健康という差別化と新しいコンセプトは、市場でも受け入れられ、東海光学の主力ブランドとして認知されるようになった。こうした他社では真似できない技術力と開発力をもって、業界にまだ見ぬ新たな価値を生み出す独自のものづくりが、東海光学の大きな柱となっているのである。

女子開の躍進

平成23年、女性の活躍推進が叫ばれる最中、女性目線の新しい商品開発により他社との差別化を図ろうと発足したのが女性だけの商品開発チーム「女子開」である。開発から販売まで女性だけのチームで手がけ、平成24年には初の女子開オリジナル商品「肌美人」を発表した。レンズ開発にパーソナルカラーの理論を導入し、全国で体験型のセミナーを開催。パーソバルカラーアドバイザーの資格をもつ社員が直接お客様にメガネをコーディネートするような販売支援方式をとった。これが好評を博し、平成25年には第二弾商品「男前」を発売、さらにメガネフレームの開発まで手がけた「肌美人+」を発売し、シリーズは大ヒット商品となった。その後も、女子開メンバーは躍進を続けることになる。色が人体にもたらす科学的根拠を調査するために色彩心理療法に精通する医学博士に協力を仰ぎ、臨床試験を行った。するとピンク色の波長が気持ちをリフレッシュし明るくなると回答する方が多いとの結果が出た。それを元にピンクのサングラス「美美Pink」を開発。これがNHKなど各メディアで取り上げられ、さらに内閣府革新的研究開発推進プログラム(ImPACT)の「Healthcare Brain チャレンジ」優秀入選アイデアに選ばれた。

女子開の活躍により、社内の各分野でも女性の積極的な活用が進んだ。現在、女子開による商品は10点にも登り、今後も活躍を期待されている。

光機能事業の新たな挑戦

平成25年に薄膜事業部から光機能事業部と名称を変更し、受託加工から提案型の開発部隊へという方向性が打ち出された。当時、映像業界に向けたLED照明の開発を手がけていたが、宏和社長を交えたミーティングの中で、照明器具よりも自社の特性を強く打ち出せる自社商品のほうが良いという意見が出された。そこで開発されたのが分光透過率計「TL-100」である。従来のものよりも簡単に測定でき、小型でシンプルな構造を実現した。

平成28年には、アメリカ・アリゾナで開催された光学薄膜の国際学会(OIC)の設計コンテストにて、東海光学の技術者が2位の成績を収める快挙を成した。光学薄膜分野の専門家や研究者、技術者との交流を深め、東海光学の技術力を牽引する存在ともなっている。さらに平成30年には光機能事業部が開発・製造した光センサー用集光器が東京大学宇宙線研究所に採用され、スペイン領カナリア諸島にある世界最大級のガンマ線天文台「チェレンコフ望遠鏡アレイ」に搭載された。国際共同プロジェクトの宇宙線研究という高い技術を求められる現場で、東海光学の技術力を頼りにされる事実は、改めて自社技術への自信と誇りにつながったのである。

平成30年11月には、真福寺事業所第二工場の建設を着工(平成31年11月竣工予定)。光機能事業部の今後の拡張も想定し、蒸着および包装ライン導入を予定している。東海光学100年に向けたコア技術の創出と新たな技術革新を目指して、新工場は新たな息吹をもたらす核となるはずである。そして、東海光学にしかできない高品質な技術を磨き、これからも世界へ発信し続けていく。